インドの首都、ニューデリーから南へおよそ570キロ、インド亜大陸のほぼ中央部に位置する中部デカン高原。
その州都ボパールから凡そ70キロにあるサーンチー。
サーンチーは現在人口3,000人ほどの小さな村である。
しかし、サーンチーは紀元前3世紀インド中央部における仏教の中心地であった。
ボパールの街並み
取材地 インド・ボパール州
タージ・ウル・マスジッド寺院
取材地 インド・ボパール州
インド史上において最大の帝国を築いたマウリア王朝、第3代アショーカ王によってインドを統一国家となすべき、インドの各地で、暴虐な戦いを繰り返し、地方を征服した。
即位後9年目、東南海岸のカリンガ地方を征服した時、戦いとは何と残酷で悲惨なものなのか。
血に飢えた欲望だけが支配するものと、大きなショックを受けた。
反省と深刻な懺悔を行なった。
やがて、ブッダの法(ほう)に則って国を統治することを決意。
近隣諸国にもブッダの教えに従うよう使節を派遣した。
その上、アショーカ王も自らブッダの遺跡を巡拝し、それぞれの遺跡に石の柱を建立した。
インド北部のブッダの遺跡に残る石柱は、アショーカ王の石柱と呼ばれている。
サーンチーの小高い丘の上には、ブッダの遺骨を納めるために造られたストゥーパがある。
インドに残る最も古いこの大ストゥーパは、2200年前のもので、ブッダが入滅されたのち約200年後、仏教に帰依した第3代アショーカ王によって造られたものと伝わる。
直径約36mのこのストゥーパは、仏教美術の傑作の一つに数えられ、インドに数ある遺跡の中でもシンボル的な存在となっている。
また、初期仏教芸術の最高峰と言われているのが、東西南北にある4つの塔門。
その塔門には、ブッダの前世から、80歳の生涯を閉じるまでが浮き彫りとなっている。
しかしながら、その何処にもブッダの姿は見受けられない。
仏足石(ぶっそくせき)
取材地 インド・サーンチー
ブッダの姿が見えないのは、仏教美術の生まれた初期のころ、余りにも尊い方を表現する事がはばかれ、タブーとされていたからと伝えられている。
ブッダの姿は時に菩提樹として登場し、時には、法輪や台座として、又、仏足石として表されている。
ブッダを直接描く事よりも、むしろその精神性を象徴したのであろう。
サーンチーの市場
取材地 インド・サーンチー
アショーカ王によって、このサーンチーを含む一体は大きな仏教センターなどが建設された。
12世紀頃までさかんであったが、やがて幾星霜、人々の記憶から忘れさられていった。
ブッダが誕生せしめた仏教はいま、インドに僅かしか残ってない。インドの人々にとって仏教はヒンドゥー教の一部であって、別な宗教とは考えてない。ヒンドゥー教徒はヒンドゥーの神々を崇めると同じく、ブッダをも崇拝している。
その結果、イスラーム教徒による破壊からも免れ、今日その歴史を見事に保っている。
それにしてもこの遺跡、2000年からの時を経ているにもかかわらず、当時の姿をこれほどまでに残している事には驚かされる。
まさに、ブッダの教えは、今も脈々と生きており、ブッダは現代に生きる我々にも教えを説き続けていられる。